神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第七章③ 私の祈念法
あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。光になるとは、愛そのものになることである。それは自分の立場がよくなるから、とか、自分の力を示したい、とか、人に感謝されたい、とかいう不純な心があってはいけない。真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。その場合、純粋な愛は自己の想念停止(無我)と同じであるから、本源の光がその人を通して、相手に流れ入るのである。愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。病気などの場合、なおしてやるんだ、という力や、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。
よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれに反対する。そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。何故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正しい霊能者や、霊覚者になる者は、自然に、そうなるような方向に、守護神が導いてゆき、その人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。
私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々と哲学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられて、現在のような人生指導者になってしまったのである。
その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しいと願ったこともない。ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。
その祈りはー
”神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使命を一日も早くなさしめ給え”
という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。
霊能を得たい、ということは我である。特別な力を得たい、という心も我である。
そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。その祈りが通って、霊能者になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上は、その人の運命は最後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人は出てこない、と私は思っている。
真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心であり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念いなどがあっては、神の心に触れることはできない。
不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。天からはいつも、陽気が降ってくる。たとえ雨や曇の日であっても、天に心をむけることが大事である。天に心をむけると、いつの間にか、心が軽く明るくなるものである。そして次のように祈るとよい。
”神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ、私を愛深い私にならしめ給え”と。
その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願いごとをする神詣、仏参りより、はるかに、はるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。
立っていても、坐っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形のことはどうでもよい。ただ、ひたすら、愛深い自分になることを祈りつづければよいのである。
定まった一時刻の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果があるのである。だから、いつも泣きごとや、ひがみごとや、恨みごとや、病気の不安などを想いつづけていたら、その想念の作用で、その人の運命は、いつも暗く不幸なものになってしまうのである。想念は、運命に大きな作用を及ぼすことを忘れてはいけない。
第七章④へ続く
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)

