Q. 怠惰とおまかせ(神への全託)との違いをわかりやすくお教え下さい。

A. 怠惰とおまかせとの違いについてご説明致しましょう。

宗教信仰をやっているような人には、神への全託のようにみせかけて、自分のなまけ心をカモフラージュしている人もかなりあるのですが、おまかせと怠惰な想い、自己の責任を逃れる想いとが、自分自身でも見分けのつかぬことが随分あるのです。

それも神様のみ心のままにすればよい、といって、自分の力で出来ること、出来る努力をせずに、面倒な事柄はすべて神様という言葉によって、責任を回避してしまう人がありますが、そういう人はいつになっても真実の神のみ心をつかむことは出来ません。

神様におまかせするということは、「神と人間」その他の著書でも述べているように、そう簡単なことではないのであって、自分の責任を回避する気持や、面倒な事柄はなるべくさけたいという想念では、とてもおまかせの心境にはなり得ません。

真実のおまかせの心境になるには「人事を尽して天命をまて」という言葉のように、出来る限りの努力をして、いくら努力してやっても、どのようにもがいても、肉体人間の力ではどうにもならぬことがいかに多いか、ということを知ることによって、はじめてなり得るのであります。

このことを私は逆に説いて「天命を知って人事を尽せ」と教えております。

自分の生命は一体どこからきたのか、それはわからない。

そのわからないということを素直に認め、またこの世の自然の在り方の不可思議さをも素直に認め、その不可思議力の存在を素直に肯定して、その不可思議力(神)の一つの生命としての自分がこの世にあることを知らねばなりません。

わからないのにわかったような顔をすることこそ、人間の堕落の第一歩なのです。

わからないと正直に自分が認めた時が神を知る第一段階であり、そこから自己の天命がわかってくるのであります。

神様が自分をこの世に出して下さった以上必ずなんらかの使命があるに違いがないと信じることは、神の存在を信じ得る者の容易に肯定し得ることなのです。

全智全能の神が、一人の人間でも誤ってこの世に生むことはないからであります。

神よ、自己の天命を完うせしめ給え、の祈りの心を根柢にして出来得る限りの努力を尽すのです。

努力なしには神を知ることも、天命を完うすることも決して出来はしないのです。

神を信じよう、とする想いも、神におまかせしようとする想いも、すべて真剣な心がなければ出来るものではありません。

ただ単に神に自己の責任を回避して、それがおまかせなどと思ったら、とんでもない間違いです。

この世はすべて真剣に自己の生命を生かす者の勝利に帰するのです。

真剣さのない好運などは、ただ単に過去世の徳を消滅させているだけなので、決して真実の利得ではありません。

おまかせとは、神に一切の運命をおかえしすることです。

み心のごとくなさしめ給え、であります。

このためには神を真剣に求める努力を払うことです。

その一番の近道が、たゆみなき世界平和の祈りなのであります。

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