神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第八章① むすび
以上各章にわたって述べて来たことは、宗教哲学者や、宗教の専門家からみれば、種々異論があると思うが、私は学問としてこの本を書いたわけではなく、安心立命への一つの道標として認めているわけで、この書を読まれて、人間とは、なるほどこのような者か、神様とはそうしたものか、とまずうなづけて、私のいうことを、そのまま素直に実行して下されば、その人が幸福になることは間違いない。その点、私は、むずかしい行を少しも説かず、直ぐその場で実行にうつせる祈りや行いを書いているのである。この書で私の一番知ってもらいたいことは、人間一人一人には必ず守護霊が守っていて、祈れば必ずなんらかの方法でその人の問に答え、あるいは導いてくれるので、その守護霊の注意や指導に素直にしていれば、必ずその人は人間の道を全うするということなのである。
それを信ずることは、神を真実に知る第一歩なのであり、人生を歩む非常な勇気づけになるのである。
”我れ神と倶にあり””同行二人”という確信に到達するのである。
神は形なく姿なきもの、とのみ思っているのは、いまだ捉われである。神は本来形なく、姿なき生命の原理ではあるが、その働きは、時に人格神ともなり、形ある人間としてわれわれの前に出現することもあるので、その点、守護霊、守護神の存在を堅く信じて常に守護霊、守護神に感謝していれば、その場その時に応じて、神の愛は、種々の人間や事物に託してその人を援助せしめるものである。
信仰は一つのものや、形に捉われたら執着になる。悟ろう悟ろうとして、肉体を傷つけ苦しませて邪魔扱いにしている人びとがあるが、私は、それはかえって肉体に捉われているものであると思う。肉体もやはり神の生命が必要あって存在せしめているものである。肉体の世界に住む以上、肉体も大事に丁重に扱うべきである。肉体生活を損ぜず、傷つけず、肉体生活の喜びを味わいながら、心が乱れぬ人間にならなければ、肉体世界における宗教の意義は非常に薄れる。肉体世界を蔑視する宗教や信仰は、この現界を救うことはできない。
肉体生活をそのままに、心が安心立命してゆくためには、自己が真、善、美の想念と行動をしながら、守護霊、守護神への祈りを、毎日かかさぬようにしてもらいたいと望んでいる。
それが神我一体の境地に入る一番の早道であると思う。
第八章②へ続く
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)