神と人間 安心立命への道しるべ
 ー 五井 昌久著

第七章④ 私の祈念法

 ”愛はすべてを癒やすのである”

 すべての不幸を打開するのは、愛の心が根抵にある行動である。

 私の祈りは、愛の祈りである。智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。

 ただし、愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。

 情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関係がある。そのため、仏教では、愛さえも業と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。そして神の愛を慈悲と呼んでいる。私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(チャリティー、大慈悲心)のことである。しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがいやますのである。

 情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現れであったりしたら、情に捉われやすい人よりなお悪いことになる。

 愛深い人が情に溺れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。

 私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとする祈りである。

 祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。

 願いごとは、すべて後まわしにすることである。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。

 小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。

 ただ、神だけを想うことである。愛だけを行ずることである。

 愛は、時に峻厳を極める場合がある。しかし冷酷とは全然異なるものである。

 愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために、峻厳さを示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。

 愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己の道標としなければならぬ。

 愛の峻厳を装った冷酷、愛とも擬(まご)う情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。

 私はそうした人間の深い問題を、根抵から知らせる役目を神から受け持たされているものと信じて、毎日、空即実相の祈りを、多くの人びととともに祈りつづけているのである。

第八章①へ続く

書籍 「神と人間」 五井 昌久 著

God and Man (English Edition)

Dios y el Ser Humano (Spanish Edition) 

Deus e o Homem (Portuguese Edition)

Gott und Mensch (German Edition) 

kaa Mí Gàp Má-Nóot(タイ語)

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