神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第六章⑦ 正しい宗教と誤れる宗教
因縁を説いて、その因縁を消し去ることを教えぬ宗教は人を救えない。
それは因縁、因縁と因縁を想う念に捉わせさせて、人間の本来の自由自在性を失わせてゆき、安心立命どころか、不安心の生活にその人間を追いこんでしまうからである。
因縁を説いたら、必ず、その因縁の消え去る方法を教え、その本体の神仏であるところまで説かねばならぬ。
これは、因縁を、想念(心)の法則と説いても同じである。
この不幸は、この病気は、みんなあなたの心の影ですよ、と指摘する類である。
形の世界の運命は、みんな心の影であるのは真理であるが、現在そこに現われた、病気や不幸が、その人にとって記憶のある悪想念の現れであることは少なく、大半は、記憶に出て来ぬ過去世からのものも含めた潜在意識にあったものであり、あるいは祖先や縁者の悪想念に感応している場合も多いのである。この理を考えずに、ただ、あなたの心の影だと説くことは、その人を救うより傷つけ痛めることが多いのを私はよく知っている。
これは愛の不足ということで、知識が智慧と離れた状態である。心の温い人、愛の深い人はどうしても相手の心の傷や痛手に、ぐさっと突きささるような言葉は吐けないもので、まずその不幸にたいして、同情せずにはいられなくなるものではないかと思う。
いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。
真理の眼玉よ 降りて来い
おまえがあんまり高すぎるから
世の中は暗いのだ
と歌った詩人がいるが、これこそ、肉体人間一般の叫び声であろう。この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。
一の因には一の縁をもって、この因を消し、二の因には二の縁をもって、この因を消すべきで、一の因に十の縁をもってきてもこの因は消えずにかえって深くなるであろう。(註……一を低い念(おも)いとし、十を高い理念とする)
牛肉(真理の言葉)が栄養があるから、といって、毎食牛肉ばかり食べさせられてはやりきれないし、鯨が食べたい(真理が知りたい)といったから、といって、鯨をそのまま眼の前に置かれても、どうにもしようがあるまい。
指導者は常に愛と智慧とに導かれていなければ、かえって人類を不幸にしてしまう。
以上で大体正しい宗教と、誤れる宗教の区別がついたと思うので、次には、私の祈念法を書いてみることとする。
第七章①へ続く
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)