神と人間 安心立命への道しるべ
 ー 五井 昌久著

第六章⑥ 正しい宗教と誤れる宗教

 真の宗教家を求めるならば、まず自己の守護霊、守護神に心を傾けて熱心に頼むべきである。守護霊、守護神は、必ず、その人を一番適当な宗教家や指導者のもとに送りこんでくれるのである。

 その時は、何か、安心に似た感じか、懐かしい、嬉しい感じがするものである。

 いかに高い教えを説く宗教に誘われても、守護霊、守護神に念じてみて、行きたくなかったり、行っても心が不安であったりしたら、その時は、その宗教に無理に入る必要はないのである。その時は、その人の心境に、その教えが適さないのであるからである。

 なんでもまず、自己の心の指導者、行動の守護者である、守護霊に念じてみることである。必ず現界における、善き指導者、善き相手をその人の前に現わしてくれるのである。

 自己の内に神があるのだから、他の誰の教えを受けなくとも良いのだ、と思いこんでいる人が、友人たちに向って、”君たちは、君たちの内部に神性があって、自然法爾(ひとりで)に君たちを善きように導き給うているのだから、どこの誰にも教えを受けたり、浄めてもらったりする必要はないよ”と忠告しているのを時々耳にする。これは真理の言葉のようで、非常に誤っているのである。内部の神性は、常に人間や事柄をもって、その人を導いているのであって、ある指導者に逢ったことが、内部神性の導きである場合がたくさんあるのである。

 人間は真理に素直であることが、実に大事なことであり、その素直さは、常に内部神性(守護霊を含めた)の導きに心を傾けている真剣な祈りの念に根抵を置くべきである。

 内部の神性とは、常に守護霊、守護神を含めたものであることを忘れてはならない。

 宗教教団そのものが立派で正しくあっても、その教えを説く人が正しくない場合がたくさんあるので、その点も注意が肝要なのである。

 また、その教えが、実に立派で、教えそのものとしては、それ以上の高さには誰にも説き得ないほどのものであっても、その教えのままをこの肉体世界に実現せしめ得ぬようでは、その教えが生(なま)である、といい得よう。

 例えば、人間は本来形なく、姿なきものであり、神、仏と一つのものであって、光明そのものである、実相身、無礙(むげ)身であるから、幽界があるとか、死後の霊魂が生きているとか、いうことは全然必要ないことである。ただ、ひたすら仏を憶念すればよい。といわれた場合、その理は真であって、返す言葉はないが、ただ、ひたすら仏を憶念するだけで、安心の境界に入り得る人がいったい何人あるであろうか。また、ひたすら仏だけを憶念できる人があるであろうか、という実際問題になるのである。現代のように唯物知識の盛んな時代に、ただ、人間は仏性であり無礙心である、ということや、そのような実相論、本体論だけで、近代人を救いに導くことはほとんど不可能である。

 本体論、実在論、実相完全論を説きつつ、人間因縁論をも同時に説き、肉体界、幽界、霊界、神界(仏界)を知識として認識させ、本体はこうなのだが、因縁としては、こうこう、このように種々な界を経巡っているのであるから、本体を実際に確認し、実相界にて仏となるにはいかにしたらよいか、ということを、教え導くようにするのが、宗教家であり、指導者でなければならない。

 その意味では、心霊学者や、心霊研究家の仕事も、大事であり、善い意味の霊媒者も必要である。また旧来の仏教や道教、キリスト教も役立っているが、その一つに捉われてしまうようだと、到底悟りに入ることはできないし、現象の生活環境すら真実の善さを現わしては来ない。

 であるから、各自、自己の因縁(性格を含めた)を知ることに努め、長所(善因縁)を見出して、それを伸ばして行くことに真剣になることで、悪因縁(短所)はそれを知った上で、それに捉われずに放してゆくことである。宗教家や指導者はその人の長所、短所を認識し、その認識の上に立って、長所が伸びてゆくように導き、短所は何気なく打ち消し、打ち消し、してやって、消し去るように指導してやるべきである。

第六章⑦へ続く

書籍 「神と人間」 五井 昌久 著

God and Man (English Edition)

Dios y el Ser Humano (Spanish Edition) 

Deus e o Homem (Portuguese Edition)

Gott und Mensch (German Edition) 

kaa Mí Gàp Má-Nóot(タイ語)

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