神と人間 安心立命への道しるべ
 ー 五井 昌久著

第六章② 正しい宗教と誤れる宗教

 宗教とは哲学ではない。哲学を越えた行の世界が宗教である。

 また、宗教とは教団や教会や、伽藍ではなく組織でもない。人間が神仏にそのままつながっている生命であることを、自覚させる行であり、教えである。

 真に宗教が世界に拡まり、世界人類が、真の宗教心、信仰心に生きたならば、この世は愛に満ち充ちた天国となるのは明らかである。

 愛とは、神そのものであり、神と人間をつなぎ、人間と人間を調和させ、人間とあらゆる生物を琴和(きんわ)させる最大の働きをもつ心である。

 宗教に入って、愛の心が湧きあがらぬようならば、その人は真の宗教人ではなく、神に祈りながら安心立命の道に入ってゆかぬならば、その人の神観は誤りであり、その祈りは正しいものではない。

 こうしたところから、正しい宗教と、誤れる宗教、正しい信仰心と、誤てる信仰心とを判断すべきである。

 人間は古代から奇蹟を求め、新しい世界を求めつづけた。人間の力以上のもの、知識以上の出来事、こうしたことを待ち望む心は、本来の神性、自由自在性の顕れの一部であり、常に新世界を求める人類の心の底には、神の国が蔵されていたのである。

 この求むる心、希求する心が、一方では科学精神となり、眼に触れ、手に触れる物質から物質へと探究してゆき、ついには現代のように物質波動説にまで進展し、一方では求むる心をそのまま五感の世界を超越して、波動の世界にいたり、さらに超越してあらゆる波動を発する本源の世界に突入した覚者を生んだのである。そして、この二つの方法が必然性をもって近代の文化を開き、理想世界樹立を目指してゆきつつあるのである。

 先覚者釈尊は、自己の肉体を超越して本源の光に達した時、自己そのものが、光明身そのものであることを悟ったのであり、それ以来、自由自在に神の力を駆使して、数多(あまた)の奇蹟を行い、その弟子たちも、霊界の守護神の力を借りて、それぞれの神通力を発揮した。

 仏教学者は釈尊の偉大さを、その哲学的な説教におき、その奇蹟の面は、釈尊の偉大さを称えるための一つの物語的に解釈している向きが多いが、あの奇蹟があったればこそ、仏教哲理が現在のように拡がったのであり、この点、キリストの奇蹟も真実のものであることを私は明言する。

 奇蹟なき宗教は、あまりに広まらないし、人間を魅力しない。といって奇蹟のみを喧伝(けんでん)する宗教には邪しまなものが多い。

 説教のみの宗教は、宗教の形骸に流れやすく、奇蹟のみの宗教は、かえって、人間を不安動揺せしめる。

 近代における既成宗教の大半は形式を教うるのみで魅力なく、新興宗教の大半は、奇蹟的現世利益を説くが、人間の不安動揺の心を根抵から救ってはくれない。

 その場、その場の現世利益があったからといって、そのことだけで正しい宗教とはいえないが、宗教とは現世の利益など、どうでも良く、死後や未来がよければよい、というのも片寄っている。また、宗教に現世利益を求めることは間違いで、人間の本体を仏であると観ずること、色即是空、空即是色(ものは即ち空であり、空の中にすべてのものがある)である悟りに入ることのみが宗教なのだ、という人びともある。これは真に正しい教えなのであるが、現世のように、肉体生活への執着の非常に深い時に、ただ、肉体は仮相であって、実相ではない、と、全然、肉体生活の利害を無視したように見られては、一般大衆との距離があまりにも遠く、これによって真に救われる人は僅少の僅少のほんのわずかであると思う。

 私は、肉体生活がある限り、肉体生活の利害を全然思わぬ、というような教え方は無理であると思うので、肉体生活の利害も認め、その利益もあり、幽体の存在を認め幽界を知らせ、幽界における死後の生活の方法を教え、さらに一番大事で、肝腎な、人間は神そのものである、ということを悟らせる方法が、前者の各方法よりさらによいのではないかと思う。

第六章③へ続く

書籍 「神と人間」 五井 昌久 著

God and Man (English Edition)

Dios y el Ser Humano (Spanish Edition) 

Deus e o Homem (Portuguese Edition)

Gott und Mensch (German Edition) 

kaa Mí Gàp Má-Nóot(タイ語)

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