神と人間 安心立命への道しるべ
 ー 五井 昌久著

第六章① 正しい宗教と誤れる宗教

 宗教とはいったい何か、ということが最初に問題になる。

 宗教とは、神仏(絶対者)と人間との関係を説き教え、明らかにする道であると、私は解釈する。

 この原理に沿って、正しい宗教と、誤れる宗教とを区分し考えてみることにする。

 神とは、人間理念の根本であり、智慧(創造力)、愛、生命の根源である。従って、完全にして、円満、調和せる象徴である。

 この完全円満なる力を内にもちながら、業因縁の渦巻の中で、その渦巻、そのものが自己であると誤認し、悩み、苦しみ、もだえながら、その渦を脱しよう、逃れようとしているのが肉体人間の姿である。

 そして、その業因縁の渦を脱して、内なる神性を完全に輝やかせた人を、解脱者、仏陀といった。釈迦はそうであり、イエス・キリストもそうである。他にもそのような完全神性を現わした覚者がいたわけである。

 最初にそうした人たちが、神と人間との関係を説き、人間は完全円満な神性であることを明かし、行じて、人びとを安心立命の境地に導いていった。自己が完全円満なる神性であることを悟ったら、この人間は業生を越えて救われたことに間違いない。

 この導師は、神の使徒たちであって、真の宗教家である。

 しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。

 このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先きになり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。

 やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。

 宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。

 神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。

 学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら求めても神はいない。

第六章②へ続く

書籍 「神と人間」 五井 昌久 著

God and Man (English Edition)

Dios y el Ser Humano (Spanish Edition) 

Deus e o Homem (Portuguese Edition)

Gott und Mensch (German Edition) 

kaa Mí Gàp Má-Nóot(タイ語)

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