神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第五章⑥ 因縁因果を超える法
守護霊を知らず、守護神を知らず、ただいたずらに、精神統一法をしたり、座禅を組んだりした場合、その精神統一で、やや空になった肉体に、幽界の魂魄が感応してくる場合がある。こうした場合、守護霊により、自然法爾に整った、生活態度、いわゆる明るい楽しい雰囲気とは違って、何か、非常識な、他人に不快を感じさせるような雰囲気を持つ人間になる。
(このことについては次章で改めて述べることとする)
私は、座禅したり、静座したりして、心を空にする行法を採らない。空観する場合は、善き導師がいなければ危険である。
私は、ただ、素直に、守護霊、守護神に感謝してその人、その人の生活の業(わざ)に励んだほうが楽に、自然に、神につながり、悟れる、と信じている。
いかなる困難な事態がその人の前に起ころうとも、守護霊の守りを信じ得る人は、必ず、その事態は光明に転ずるのである。
この場合、守護霊はいったいいかなる人か、などとその人の生前の戸籍調査などしなくともよいので、ただ、誰方(どなた)か知らぬが、自分に関係の深い祖先の一人が、神様につながる強い力で、守っていて下さるのだと、素直に思っていればよいのである。
もし迷う事柄があったら、心の中で守護霊さんを呼びながら、その裁断を願えば、必ず、なんらかの形で、その答をしてくれる。それは前に述べたように他の人に逢って、その人の口から聞かされるかも知れぬ。あるいは、ぴん、と直感的にひらめくかも知れぬ。ただ、この場合、前者なら、最初に逢った人であり、後者なら、最初の直感、第一直感が、その答である。その答がいかに、現在の自分に都合が悪いように思えても、それは後によくなる方法に違いないのである。それを信じなければならぬ。第二直感で出てくることは業因縁の答であるから、よくよく注意せねばならぬ。業因縁の答は常に甘い。都合のよさそうな答が多いので、つい、この答にひきずられることが多いものである。だから、常日頃、守護霊を信じ、感謝の想いを抱いていなければいけない。
弘法大師が、同行二人(どうぎょうににん)、といったのは、この人間生活は自分一人で生きているのではなく、守護霊と二人連れなのだ、神様と一緒に生きているんだ、ということで、キリストの、神常に汝と倶にあり、という言葉と同じである。ただ、一般の人たちに、神、という風に、あまりに大きな、高い感じのものより、守護霊という、自分自身と直接つながりを持つ、祖先のしかも力ある霊が背後で常に守ってくれている、と思うほうが非常な親近感で、念じやすく、かえって神に統一する環境になりやすい。
また、現象に現われた、病気や、不幸を、これはいかなる過去の心の現れか、と精神分析して反省するよりは、現われた悪い事態は、すべて、過去の業因縁が、形に現われて、消えてゆく姿なのだから、この苦しみが済めば、必ず、一段善い環境になると信じ、それと同時に、守護霊さんが守っていて下さるのだから、必ず善いほうに、善いほうに向っているに違いないと信じることである。過去の因縁を分析すると、自分を痛めやすいし、気持が暗くなって、神から離れがちになってしまう。
神は光なのだから、常に明るい心の人を喜ぶ。
ー 神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているんだ、しかも守護霊さんに守られながら生きているんだ、過去はない。過去は消えてゆく。どんな苦しみも必ず消えてゆくんだ ー と、過去の心の誤りなぞ、穿(ほじく)り返えさずに、ただただ、光明のほうに、心を向けていることが、自分を救い、人を救う、一番大切なことなのである。
愛と許(ゆるし)の世界をみんなで創ることが大切だ。
自分を愛し、人を愛し、
自分を赦し、人を赦す、
これが業を越える最大の道
みんな、いたわり合い、励まし合い、
足りない智慧や力は、守護霊さんにおまかせしよう。
守護霊さんが、きっとうまくやってくれるに違いない。
第六章①へ続く
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)