神と人間 安心立命への道しるべ
 ー 五井 昌久著

第五章④ 因縁因果を超える法

 神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。

 守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。

 こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。

 夢などはその顕著なるものである。

 夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。

 夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。

 想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

 何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾の業火(ごうか)は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる個所に展開されていることは明らかである。

 この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。現われれば消えるのが想念(おもい)の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆくのである。)夢の場合はその想念(おもい)が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念(おもい)であるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念(おもい)は再び幽体に記録されることはない。

 その想念(おもい)は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

 たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。

 フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性慾(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。

 判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。

 このことを知ることは大きな救いになると思う。

 この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。

第五章⑤へ続く

書籍 「神と人間」 五井 昌久 著

God and Man (English Edition)

Dios y el Ser Humano (Spanish Edition) 

Deus e o Homem (Portuguese Edition)

Gott und Mensch (German Edition) 

kaa Mí Gàp Má-Nóot(タイ語)

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