神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第三章② 実在界・霊界・幽界・肉体界
第二図の如く、各分霊は霊界に所属しながら、その心(念)をもって各幽体を創造しここに幽界ができた。この幽体は各々の念が記録される場所となる。即ち業因縁の蓄積所である。ここに蓄積された記録や記憶が肉体の頭脳にキャッチされ、考えとなり行動となってゆく。この蓄積された記憶を潜在意識といい、頭脳にキャッチされたものを顕在意識という。怒ろうとせぬのに怒ってしまい、不幸になろうとせぬのに、不幸になってしまう等々、すべて潜在意識(幽体、幽界)からの意識の流れによるのである。この波が常に転回し、不幸の念の蓄積は不幸を呼び、喜びの念の蓄積は喜びを呼ぶという風に、輪のように転回してゆくので、これが業の因縁、因果と呼ばれている。このことは後の章において述べることにして、また分霊の説明にうつる。
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物の創造を司る神霊が動物を創造した、その創造過程が、霊、幽、物質としだいにその光波を物質化した。いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波)としていったと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を山霊、海霊、木霊、動物を司る霊等と協力して、なさしめたといえるのである。従って人間(霊)が光波ででき、肉体が原子からできていることと、自然界の法則とは範疇の異なった、等しい原理によるといえよう。ただ大いに異なることは、山海草木も動物も創造されたるものであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は、創造者である分霊そのものが、肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。これは重大なることであって、釈尊かの言葉に”人身得難し”とあるのは真である。動物は神に隷属されたる物、人間は神そのものの分霊であること、本来自由自在なる者であることを、よくよく考えて感謝しなければならない。
さて霊・魂・魄として三界に活動している分霊はしだいに肉体人そのものになってきて、肉体外の六官(直感)直覚(神智)の衰えを見せ、すべてを五官の感覚にのみ頼ることが習慣づけられ、五官に触れぬものは無いものと思うようになり、人間とは肉体であり、心(精神)とは、肉体の機関が生み出した働きであるとして、分霊の活動は分霊そのものとしては感じられぬようになっていった。しかし、分霊と分霊とが本来は神において一つの者であったことが幽体に記録され、記憶されているのが意識を超えて思われ、肉体においては、はっきり個々に分れていながらも、お互いが、お互いのことを思いあう感情、愛は消えることはなかった。この愛の狭い範囲の働きは、親子、夫婦、兄弟の間に、ひろくは、人類、社会の範囲に及ぼされている。愛こそ神へつながる道であり、光であり、本来の自己を見出すただ一つの感情、行為であった。
分霊は物質の世界、形の世界において、己れ自身の本来身、光(神)を忘れかけながらも、心の底から湧きあがってくる、人間本来一つの光の理念が、愛の思いとなり行為となって、わずかにその光を保っているのであった。
神の心を愛と呼び、業因の働きを執着、と呼び、この二つの心が、人間の生活を、幸と不幸とに分けていこうとしているのである。
第四章①へ続く
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)