神と人間 安心立命への道しるべ
ー 五井 昌久著
第一章 はしがき
古代より幾星霜、人類は常に完全なる平和を夢み、希求し、熱望しつづけてきた。争いなく、恐怖なく、悲しみなき愉悦そのものの世界、貧なく、病なく、別離なき世界。
こうした願望は、釈迦、キリスト、マホメットを始め、世代、世代に幾多の聖者を育て、芸術家の名を残さしめ、思想家、政治家、学者、発明家と、縦に横に大きな広がりをみせつつ現代にいたった。現代こそ文明文化の華開き、あらゆる思想も泉を枯らしたと思われるほどの世界である。
さて、こうした文明文化の世にいたったのに、この現代世界の人びとは依然として、完全平和から遠く、闘争あり、恐怖あり、悲哀あり、老病貧苦あり、別離ある、不安定の生活状態に息づいているのである。これはいったいどうしたということなのであろう。形の世界における古代と現代との状態は、天と地ほどの差異があることは考える余地のないほど明らかで、文明開化は生活様式の便を極度に利益したのである。その便利さだけをみれば現代に生活する人びとは、天国浄土に生活する幸福を感じなければならぬはずである。しかし現実はどうであろう。生活状態の進化は確かに肉体的活動を容易ならしめ、安楽感を与えてはいる。だがそのような安楽感では、人類世界のもっている不安定を消しとめる力とはなり得ない。形こそ違え、いつくずれるかも知れぬ精神の不安を日々味わいつづけていることにかけては、非文明の時代と少しも変わりがないのである。ガス、電気、水道、汽車、自動車、飛行機、欲するものはほとんど金力をもって手に入れることができ、欲求を充たすことができるこの現代の生活が、どうして非文明時代と同じように、不安定な精神状態に人間を置くのであろう。
それは、現代の生活も古代と等しく、確固たる基盤を持たぬ生活であり、明日にも一瞬に破壊される生命の危機にさらされる生活であることである。戦争、天災、病苦、そして生活の不平等、それに最も根本的な、肉体滅亡への恐怖、これらの問題を解決しなければ、いかに表面的な生活状態の改善がなされても、一向に人類の幸福はもたらされぬのである。とはいえ、戦争、天災、病苦、死苦、それらの諸苦を消滅しうることがはたして可能であろうか、可能であると私は答える。先哲、釈迦、キリストはそれらの諸苦を超越し、みずからの体験をもって弟子を教え導いたのであり、弟子たちはその教えをいい伝え書き伝え、それが仏典となり、聖書となって、現代に至るまでの精神界の光明となり道標となってきたのである。仏典といい、聖書といい、ともに人類救済の原理が書かれているのであって、その説かれたる通りの行いを人類のすべてが行ずれば、必ず地上天国が実現するのであるが、不幸にして、人類はこれらの教典を単に精神の糧としたのみで、行いにまで及ぼすに至らなかった。いいかえれば人類のほとんどが、二聖者の真意を解し得なかったのである。しかしこれら聖者の及ぼした影響は、人類の心の底に深い根を下し、しだいに強い光となって現われようとしているのである。
人類の業因は、今まさに大きく自壊し、真理の光が燦然と輝き出でようとしているのである。真理(神)につらなる者は残り、しからざる者は滅びるという聖者の言葉の実現を前に、私は神と人間との関係、霊、魂魄、生前、死後などにつき、でき得るかぎり詳しく述べ、人間生活の在り方、幸福生活への真の導きを書きつづることとする。
霊光写真

この写真は私の家の前で、立っておられる五井先生を私が写したもので、肉体ではなく、光体だけが写っている。
この光体は霊、幽、肉の三体が三つの輪に見える。中央の光が霊体である。ここから光波が出て幽体、肉体が出来るのであると、先生は言われる。見る人によると、円光の中に先生の姿が見えたり、観世音菩薩の姿が見えたりするそうである。
(撮影者:市川市平田 島田重光)
Dios y el Ser Humano (Spanish Edition)
Deus e o Homem (Portuguese Edition)